生きるべきか、死ぬべきか・・・演奏芸術の悪魔に魂を売る方法(あるいは、否)

幾つかの人類の最も原初的な神話や物語は、人間の心の葛藤、(詰まり)生と死、愛と憎しみ、恐れと勇気、を扱っている。プロメテウス神話、(プロメテウスは人々に対する愛情から、神々の願いに背き、火の知識を人々にもたらす為に彼の人生を危険にさらした)は、完璧な例として、敵っています。
人文科学界の歴史も、似たような例を呈している。ガリレオと、地動説を否定する圧力下での彼の苦闘を思い出すだけで、充分に事足りる。その他の無数の例は、我々の知識は、価値あるものであり、大変貴重だという事を我々に思い起こさせるのである。過去に我々に起こったほとんどの克服できない困難を考慮すると、我々が生き残っているという事実は、時の螺旋階段の上へ上へと我々を駆り立てる力の強さについて十分なことを語っている。
我々は今日、自分達は違った時代に生きていると、自惚れている。本当かな?
今日のミュージシャン-演奏家が直面するチャレンジとリスクとは、何だろう?
その最も大きな問題は、「無感覚状態」の傾向にあることです。今日の音楽芸術界は、益々単なる儀式化の傾向にある。我々は土曜日の夜にシンフォニーを聞きに出掛ける。なぜなら、演奏会が開かれているからだ。おそらく、ベートーヴェンの第五か、チャイコフスキーの6番か、ドヴォルザークの「新世界」が演奏されるであろう。そして、演奏の如何にかかわらず、カーテン・コールは3回あるだろう。理由?我々はあとで渋滞に捕まるようなことがないようにと、駐車場やパーキングに入れてある車へと疾走しなくてはならないからだ。
すべてのものに肩書きがあるので、容易く売れるのかもしれない。クラシック音楽 vs R&B、ジャズ、エスニック、ラップ、等々。クラシック(ロマン派、バロック、古典派、印象派、現代)の作曲家でさえ、永久に若くて楽天的なモーツァルト、革命児ベートーヴェン、優美なショパン、異彩を放つリスト、輝けるスカルラッティ・・・といったレッテルから免れる事はできないのだ。所謂、クラシック音楽の高尚な目的は「リラックス」だと、考えられている。ステージでは、演奏する誰もが黒を身に纏っている。
最近、よく知られている演奏家が私に尋ねました。「あなたの専門は何ですか?いいですか、今日日、誰でも専門を持たなくっちゃあ、ならんのですよ」
私にとっては信じがたい事です。クラシック音楽が独占的であり、且つそのメッセージと表現に到達するのに制限があろうとは。バッハが、彼自身をバロックの音楽家だと思っていたでしょうか?ベートーヴェンが、何かを強烈に感じた時、こんな風に言ったでしょうか?「私はこんなに感じるべきではない。平静を保たねば。私は古典派の作曲家なんだから。」
今日、私達は容易に証明する事ができるのです。弱々しく暗いモーツァルト、ウィットに富み、感じの良いベートーヴェン、取り付かれた、そして狂気のショパン、郷愁的で詩的なリスト、印象主義のスカルラッティ・・・
No!私をお許し下さい。私は専門家になる事を望みません。そして、Yes、私は時々ステージで青や緑を着たいのです。
私はリラックスしたかったら、眠ったり、ビーチに行きます。そして音楽を聴く時には、音楽が私に触れ、私を感動させ、考えたり、不思議がったり、笑ったり、泣いたり・・・そういった事を望みます。
そう、これらの型通りの習慣の目的は何でしょう?
それには、ポジティブとネガティブという二面性があります。すべての価値ある伝統の守護天使として、先代の偉業を踏襲する為に尽くす事は、ポジティブな一面です。一方、世界が狭くなり、人々の時間はどんどんなくなり、そして生活の量の為に質を引き換えている今日において、このような紋切り型は時間の節約になっています。従って、私達は考える必要も、感じる必要も、熟考する必要もないのです。この事は、まったくもってネガティブな一面です。なぜならば、芸術の、より繊細な部分や矛盾している別の側面を見たり感じたりする能力を塞いでいるからです。次第に私達は完璧な自己管理メカの一部に、それも極めて重要な感動する力が欠如した部分になってきています。
演奏家としての最大の危機は、この機械の一部になる事を承諾する事です。これは、演奏家が、作品に対してそれ以上、何も感じないままに、全ての都市で繰り返し何度も同じ7つの作品を演奏しなければならない事を意味しています。そういった演奏の1つを聞いた時、あなたは全てを聞いたのと同じなのです。彼は、あまりに多くを、あるいはほとんど何も明らかにはせずに、とりわけ誰の腹も立てず、あるいは誰にも迷惑をかけずに(とんでもない!動け!)彼の演奏を合わせるでしょう。誰かはリラックスしたいかもしれない。
こうする事で、演奏家は成功の為に魂を売っているのだ。
もう少し頭の良い演奏家なら、わざと「面白く」または「独創的」や「エキセントリック」になることによって、この惰性という罠から逃れようとするのだ。彼らは、それ自身の本質から外れて、彼ら自身をも騙しているのです。そのような芸術家は、虚栄心の祭壇へと彼らの魂を生贄として捧げているのです。
最も難しく、しかしまた最も価値があるのは正真正銘の芸術家の位置である。真の芸術家は、大きな勇気、自分自身であるという勇気を、奮い起こさねばならない。一方では、芸術家は社会や市場や世間一般の文化的風潮からの圧力を甘受している。他方では、真の芸術家は、これらの圧力が自分の理想に近づいた刹那に、只社会や市場の圧力から自身が逃れるようにと唆す自分の理想によって苦しめられているのである。彼らは愛しんでいたり、憎んでいたり、手に負えないと感じている彼らの芸術に、日々取り組んでいるのです。それは選択の如何ではなく、宿命であり、運命づけられたものなのです。結局、彼らは遅かれ早かれいつも賞賛を博するのです。例によって、彼らはちっとも栄光なんて、欲していないのです。芸術家の生活を送る事は、価値ある事であると同時に、疲労困憊させられるに充分なのです。


                               





(乏しい英語力で訳しておりますので、気になる個所は、是非ご指摘頂ければ幸いです)