MUSICA NOVA 2001年9月号掲載インタビュー

ヨーロッパからアメリカへ
 ケマル・ゲキチの名は、1985年のショパン・コンクールで入賞を逸したことで一躍世界的に知られるところとなった。ポゴレリチによく似たケースだが、ゲキチの場合は、その後出身校であるユーゴスラビアのノヴィサッド音楽院で教鞭をとることにかなりの時間を割いたため、ピアニストとしての来日も過去2度だけにとどまっている。今回は96年以来、3度目の来日となった。
 
この間、祖国は激動の時代を迎え、クロアチア出身のゲキチもその政変の波にもまれ、99年にアメリカ公演を行った後、フロリダに移住。現在はフロリダ州立大学の教授の任に就きながら、演奏活動を行っている。
「96年以降アメリカで演奏する機会が増え、次第に活動の場がヨーロッパからアメリカへと移っていったのです。年に1度アメリカ・ツアーを行うようになりました。そして99年4月にツアーを行っていたとき、祖国で内戦が勃発。私は国に帰れない状態になってしまいました。70日以上も爆撃が続き、戒厳令が出てしまったので・・・。もちろん家族もいますし生徒たちも大勢いますので、すぐに家と音楽院に連絡をとりましたよ。でも、いまは戻ってこないほうがいいとみんなに言われたのです。ショックでしたね。そのころフロリダ州立大学からコンサートを優先する教授という立場で大学にこないかと誘われ、私は長い間考えた揚げ句、ようやくアメリカに住む決心をしました。これしか方法がなかったのです」
 彼は国に残してきた生徒が心配だったが、幸い卒業間近の生徒が多かったため、彼らのことは音楽院側に任せることができた。実際にフロリダ州立大に就任してみると、ヨーロッパとアメリカの教育方法の相違や生徒の違いなどとまどうことも多かったが、南米出身の生徒が多くみな勉強熱心だったため、すぐに適応することができた。
「私はもう20年も教える仕事に携わっています。これまでも困難な状況には何度も遭遇しています。私が教える仕事を始めたころは音楽院で最年少のプロフェッサーということで、いい生徒は与えられなかった。とても困難な生徒ばかりを教えることになったのです(笑)。でも、やる気をなくすと困るからと、たったひとりだけ優秀な生徒をクラスに入れてくれました」

作品について語りすぎないこと、これは大切です
 20歳でノヴィサッド音楽院を卒業したゲキチは、すぐにピアノ教員としての地位を与えられた。最初は助手という肩書だったそうだが、熱心に仕事をする彼は次第に認められ、やがて教授に就任することになる。
「でも、優秀な生徒は何も教えることがないくらい楽なんだということがわかったんです。テクニック面はもうできていますから、表現力を増すための方法をアドヴァイスすればいい。音楽性の部分ですね。ただし、逆にそうでない生徒、一体どうしたらいいんだろうと頭を抱える生徒こそやりがいがある。そのことに気づいたのです。そして最初はどんな生徒にもあらゆる情報を与え、それが生徒の助けになると信じて必死でやっていたんですが、徐々に情報を選択するようになりました」
 もちろんこの間にはコンサートを行ったり、コンクールを受けたりというピアニストとしての活動も多かった。そのなかでゲキチは教育の大切さにも目覚めていく。自身も恩師であるミハイロヴィッチから多くを学んだからだ。
「先生の教えも考えながら、自分の方法を編み出していきました。そしてやがて、情報をセーブする方法にたどり着きました。ある生徒には20ほどある情報をあえて5つしか伝えない。私が作品についてあれこれ語ると混乱してしまい、いい演奏に結びつかないことがあるからです。そうやって生徒の自発性を促し、個性を尊重していく形をとるようになりました。どんな生徒も同じ方法で教えるのではなく、ひとりひとりの才能、可能性、人間性をじっくりと考慮して教える方法をこまかく変えるようにしました。そして作品について語りすぎない、これは大切です。なんでも弾けてしまう生徒は問題ないのですが、そうでない生徒にあれこれ作品の情報や私の考えを与えてしまうと混乱するからです。パニックに陥り、フラストレーションがたまる。どうして自分はダメなんだろうと思ってしまう。そうなるとそこから引き上げるのは大変です。まず、本人に考えさせる。どう弾きたいか、どんな作品か、作曲家の意図は何か。私はそれを根気よく見守っていく。これは忍耐を必要としますが、生徒の隠れた才能、創造性を引き出すのには最適の方法です」

聴衆に支持されたことに大きな喜びを抱きました
 ゲキチは個性を重んじるピア二ストである。ショパン・コンクールで審査員の票が割れ、入賞できなかったのも、その演奏があまりにも個性的だったからだ。しかし、聴衆は味方だった。ゲキチのショパンはワルシャワの耳の肥えた聴衆の心をつかみ、圧倒的な支持を得た。
「コンクールで入賞できなかったことは大きな痛手となりましたが、私は聴衆に支持されたことに大きな喜びを抱きました。ダイナミズムがはげしいとか、エネルギッシュすぎるとか、ルバートを多用するとか、正統的なショパンではないとか、いろんなことを言われましたが、私は私のショパンを演奏するだけ。自分にしか演奏できないショパンを演奏したいと思っていましたし、いまでもそれは変わりません。生徒にもいつも言っています。自分の音楽を追及しなさいとね。音楽はその人の生きかたを映し出す。とても怖いものであり、またそれが演奏する醍醐味でもあるんです」
 そんな個性的な演奏をするゲキチは、マスタークラスのみならずごく普通の生徒も教えている。アメリカでもさまざまな生徒を担当することになった。
「フロリダの生徒のなかには最初ショパンのワルツをようやく弾けるという人もいたのですが、ついに卒業時にはリストの大曲が弾けるまでになった。すると彼女は大きな自信を持つようになった。その自信こそ、人生の大切な部分ですよね。たとえ彼女が将来ピアニストにならず他の職業に就いた場合でも、自信を持ってその仕事にあたることができるわけですから。彼女がひとりの聴衆になった場合、演奏を聴いてとても深いところでそれを理解することができるわけです。これはすばらしいことです」

演奏とは生きた芸術です
 ゲキチは昔から「演奏とは何か」、そして「ピアニストとして何をすべきか」と考えてきたという。そこに「教育者として何をなすべきか」ということも加わっている。
「たとえばベートーヴェンのソナタを楽譜通りに弾き、速度やリズムや強弱などをすべて守って正しく弾く。それでよしとするか。あるいはベートーヴェンが音符ひとつひとつにどんな感情を込めたかをとことん考えていく。この勉強の仕方の違いによって演奏はまったく変わってきます。私は自分で演奏する場合も教える場合も、より深く作曲家の魂に接することを願っています。演奏とは生きた芸術です。音楽は生きていなければなりません。生きた音楽が人の心に届いたとき、聴衆は感動してくれるわけです。演奏家と聴衆がともに感動を分かち合う。これは言葉でいうと本当に簡単ですが、決して楽なものではない。ピアニストは日々その感動を与えられる演奏をするために苛酷な練習に耐え、生涯をそのために費やします。練習練習の日々。その覚悟がないとダメなんです。自分だけで満足していただけではいい演奏は生まれません。聴き手の心に届く音楽、これを生み出さなければならない。そのためにはただ音符を追えばいいかというと、そうではない。高揚感の得られる演奏をするためにはどうしたらいいか、私はいつもこのことを考えています」

リストは生涯弾いていきたい作曲家
 ゲキチは今回の来日公演でも得意のリストを演奏した。リストはデビュー当時からずっと弾き続けている、ゲキチの代名詞ともいうべき作曲家である。
「初めてリストの作品に出会ったのは、もうずいぶん前のことですが、一度で恋に落ちましたね。忘れられない体験です。リストは自身がすばらしいピアニストだったからか、作品はいずれもピアニストに至福のときをもたらしてくれるもの。演奏すればするほど深く魅せられていきます。リストの持つパワー、人生に向かっていくパワーが音楽に凝縮している。もちろん作品とのつきあいが長くなればなるほど解釈は深くなり、私自身の経験や知識も増してきて演奏にそれが加わって変化していくわけですが、作曲家リストに対する思いというのは昔といまとまったく変わっていません。今後もさまざまな作品を演奏していきますが、リストは生涯弾いていきたい作曲家だと思っています」
 初来日からすでに12年のときが流れた。当初は表情も多分に暗く、戦禍でのきびしい状況が何度も口をついて出た。そして演奏への集中力は怖いほどで、一瞬たりとも目を離せなかったものである。だが、いまゲキチの表情には明るさが見られる。ピアニストとしての自由な活動、そして安定した教授としての地位。こうしたしっかりとした生活の基盤がゲキチの顔に人間らしい表情を蘇らせたようだ。彼が祖国に帰還できるのはいつの日になるのだろうか。私たちはそれをただ見守り続けるしかない。

インタビュアー:伊熊よし子
通訳:久野理恵子


音楽之友社「MUSICA NOVA」2001年9月号掲載インタビュー「ザ・ワールド・プロフェッサー」より、許可転載